源氏の湯の社長様から、直接〝OK!〟をいただいたので、
前回のブログでは紹介出来なかった露天風呂の写真を載せたいと思います。

↓↓源氏の湯? なんの話やねん!? って方はコチラ
松原造園、今年の夏はゲンジに夢中♪

おっと、露天風呂と言いましても、一応断っておきますが
『ヌードなし』ですから。

〝露天風呂〟〝女湯〟〝画像〟とかで検索して、このブログを見て下さってる方。
残念ではありますが、あなた様の妙な期待には応えられませんので。

女湯になります。

 
  
竹林の中の秘湯。がテーマです。

  

お風呂からの眺めです。
暫し、時間を忘れて浸ってくださいな。

  

源泉はもっと茶褐色の濃い色なんですけどね。
足元が見えにくくて危ないってことから、ろ過して色を薄めているそうです。

つづいて男湯。

  

〝男湯〟とか〝女湯〟といっても、ほとんどシンメトリーなんですけどね。
一応、男湯は力強く。女湯は丸っぽくを意識してつくってます。
まぁ、つくり手だけの自己満足です。

  

露天風呂は手前が浅く、奥が深くなっております。

   
 
夜は竹林がライトアップされて、さらに雰囲気が増します。

 
こんな感じに♪
 

ぜひ、実際に地下1111mから汲み出した温泉に浸かっていただいて、
ゆっくりと、くつろいで頂きたいなと思います。

ほんで今、僕はと言いますと、

2か月にわたった〝源氏の湯造園工事〟が終わってホッと一息。
会社で内業なんぞをしながら、まったりと哲学をしたりしてます。

 

日本美を哲学する

「あはれ」「幽玄」「さび」「いき」といった言葉が、
西洋美学の「美」とかなり共通するところをもっているということは認めている。

それでも、西洋の「美」が、あらゆる芸術の分野を
網羅した中から抽象された概念である点や、
純粋に観念的性格をもったものである点などで、
それらとは異なっているとしている。

しかし、別の視点から見れば、
「あはれ」「幽玄」「さび」「いき」といった言葉は、
西洋の「美」よりも広がりをもった概念とも言える。

それらは、ある場合には、
「美」的概念というよりも「倫理」的概念であったり、
「存在」的概念であったり、さらには「宗教」的概念であったりする。
しかし、だからこそ、限定的な「美」の概念に制約されない
豊かな内容をもったものとして今日の私たちには映るのである。

ま、これだけでは〝なんのこっちゃ〟です。

要するに

「あはれ」とは、哲学的にいうならば、この世界の本質をどう把握するかという問題であり、
「幽玄」とはこの世界をどう超越するかという問題であり、
「さび」とは離脱した世界をどう再び回復するかという問題である。
そして、「いき」の場合には自己と他者との関係の中で「美」が問題となっている。

ということなんだそうな。

そして、茶の湯の芸術観と桂離宮の芸術観を題材にして、
日本人の芸術観を探るんだそうな。

毎日外で仕事してる現場人間には、ちと小難しい内容ではありますが、
なんだか興味深いテーマではあります。
こんな知識が、実際に庭をつくる現場で役に立つかどうかは別にして、
自分が一生を懸けると決めた〝庭〟っちゅうもんを
色々な角度からアプローチしてみるっちゅうのも大事なんじゃないかと。

この本自体は、昔の著名な思想家や
哲学者の書物を引っ張り出してきて、まとめてみました
的な本ではありますが、今まで勉強してこなかった
私にとっては、まとめてもらってちょうどいい感じです。

で、この本の中で参考文献として紹介されている本の中に、
これまた是非とも読んでみたい本を見つけてしまい、
ついアマゾンで衝動買いしてしまいました。

 

終わらない庭 ―昭和の三大作家と巡る宮廷の庭―

実は三島由紀夫に嵌まってまして。
彼の文章は、もう美しすぎます。

あるとき私は教室の窓から風に揺れている
一本のあまり丈高からぬ木を見いだした。

見ているうちに、私の胸は鳴ってきた。

それは驚くべく美しい樹だった。

芝生の上にそれが丸みを帯びた端正な三角形を築いており、
燭台のように左右対称にさしのべた幾多の枝が
その重たげな緑を支え、その緑の下には
黒い黒檀の台座のような、揺るぎない幹が覗かれた。

完成され、巧緻をつくし、しかも「自然」の
あの優雅な投げやりの気分も失わずに、
その樹は彼自ら彼の創造者であるかのような
明るい沈黙を守って立っていた。

それはまた、確かに作品であった。

これは『仮面の告白』っていう小説の一節ですけど、
たった一本の木に対する描写がこの調子ですからね。
そりゃあもう凄いってもんじゃないです。
天才中の天才です。

そんな人が庭を語る。
もう。早く送られてこないかなぁ。なんて。

それが今一番、楽しみにしていることです。