引き続き、東福寺方丈庭園の赤松の謎に迫ります。

庭志から庭師へ
東福寺方丈庭園 八相庭の南庭

京都東福寺 八相庭①  ←事の発端はコチラから

重森三玲の昭和14年6月1日付の日記に、気になることが書かれていました。

昭和14年6月1日の日記より

先般来より東福寺方丈南庭・西庭の分、設計中の処、大体に設計図完成する。
(中略)
先ず、南庭は前旧庭の松二本を東部に移し、東部に五山に因む築山五ヶ山を築き斜線として出し、西部に蓬莱四仙島を組む枯山水様式なり。…

庭志から庭師へ
日記の「東部」と「西部」が反対なのは恐らく記入ミスでしょう。
要するに、

前々から取り組んでいた東福寺方丈庭園の南庭と西庭の設計が概ね完成した。
まず、南庭は前旧庭の松二本を築山をつくる西側に移植し、東側に四仙島の石組を組む枯山水様式である。

そうなんです。
この日記には、築山に松二本を移したと記されています。

作庭当初、松は2本だった…

さらに深まる謎。というか、振り出しに戻った感じです。

しかし、判ってもきました。
作庭当初、三玲の日記の通りなら、南庭の築山部分には赤松が2本あった。
恐らく、恩賜門を超えるほどの赤松が2本、雄々と庭園の枠をはみ出すほどの勢いで植えられていたのでしょう。
そして、いつ頃かは分かりませんが、その内の1本が何らかの原因で枯れてしまった。
庭志から庭師へ
1本だけになってしまった当時の写真

その後、この赤松までこれまた何らかの原因で枯れてしまった。
そして、最後に枯れた赤松の根元に、新しい赤松を植え直し、今ある庭の形になっている。
庭志から庭師へ

およそ、こういう経緯だと考えられますね。

やはり、気になるのは南庭の作庭当初の姿。
当時の写真さえあれば、ほぼ疑問は解決します。
そう思い、もう一度調べ直してはみたのですが、残念ながら手掛かりとなるようなものを見つけることは出来ませんでした。
せめて、もう一つの切り株でも見つけることが出来れば、植えられていた場所と木の大きさが想像出来ます。
ネットに徘徊する八相庭の様々な画像も確認しましたが、残念ながらそれらしいものは見つかりませんでした。
手詰まりになった私。

そこで最終手段。

直接、東福寺に電話です。
あくまで私個人の探究心です。
ただの興味本位ですので、なるべく実務で忙しいであろう方々に、迷惑はかけたくなかったのですが、ここまで来て諦めるのは無念です。
申し訳ないと思いながらも、電話してみました。

東福寺の返答は「当方では、昔のことは判り兼ねます。重森三玲のお孫さんが代表をしておられる重森庭園研究所の方へ問い合わせされたらいかがでしょうか」

なるほど。そうきましたか。

迷惑ついでに、重森庭園研究所にも電話し… ちょっと待てよ。
いきなり電話で長々と説明するのは、得策ではないな。
と判断し、研究所にはメールにて問い合わせをすることにしました。

あれから、約2週間。

返事はありません。。。

今度はホントに手詰まりか。。。

いやいや。まだまだ!!

あれ以来、東福寺には行ってません。もう一度、見に行けば…。
それに、私が持ち得ていない重森三玲氏の本もあります。
ひょっとしたら明日くらいに、重森庭園研究所からメールの返信が来るかも…。

まだ、諦めるのは早いようです。

もう少し調べてみます。

次回、最終報告は桜が咲く頃の予定です。

京都東福寺 八相庭⑤ につづく