3回にわたって有識者たちの言葉を借りながら、竜安寺方丈庭園を皆さんと考えてきました。

竜安寺の作成意図を巡っての様々な説。

野澤氏の本からは、哲学として捉えてみましたね。

そして、美術家である森村氏が教えてくれた反転の構図。

最初から読みたいと思ってくれる方はコチラから
竜安寺方丈庭園① 

今回で第4回目。

庭志から庭師へ

私、この庭を考える度に、思いだすエピソードがあるんですよ。

私が中学生の頃のはなしです。

美術の授業のテストがあったんですね。

美術のテストですから、数学などのテストとは少し違います。おそらく、絵を描くのでしょう。前日に先生から「明日のテストの時には色鉛筆を忘れないように」と言われていました。

しかし絶対、クラスに一人はいるんですよね。忘れてくるヤツ。

絶対います。そしていました。

で、ソイツはクラスの友達に「使いそうもない色でいいから貸して」と言いまわっていました。

テストの内容もわからないのに、使わない色と言われても。。。。

で、頼まれたその友人は「これならいいよ」と、黒と白を貸したんですね。

黒と白って。。。。確かに普通、使いませんよね。

で、その子は黒と白でテストに挑んだ訳ですが、肝心のテストの内容と言えば、A3のザラバン紙の真ん中に馬が駆けているイラストが描いてあって、その背景を自分の好きなイメージで描くというもの。

私は草原とも砂漠ともつかない、荒れた大地をイメージして描いたと思います。

色とりどりのお花畑を描いた女の子もいましたね。

採点されて戻ってくると、私の絵は可も不可もなく50点満点中40点。

気になったのが、あの色鉛筆を忘れた子が果たしてどんな背景を描き上げたのか。

彼は黒と白を使って闇夜の雪原を描いていました。

降り続く雪。果てしない闇。どこまでも続く白い雪原。

その中を休むことなく駆け続ける馬。なんと50点。満点でした。

驚きました。目からウロコです。

まさに、転んでもただじゃ起きない。東郷平八郎の言葉を借りれば、「智謀、湧く

が如し」。

忘れた彼にしてみれば、色鉛筆を忘れて、絶体絶命の危機に陥ったテストが、まさか満点がとれるなんて…という、棚からぼた餅の幸運としか感じていなかったのかも知れません。

でも、先生にしてみれば、彼が色鉛筆を忘れたことなんか知りません。私よりも先生の方が驚いたに違いありません。

12色の色鉛筆がある中、なぜ彼は敢えて黒と白を選んだのか。

これは枯山水、いや禅の考え方ではないのか。

ここで先生の心境を代弁してくれるのがこの本。

「講義録 造園史 浅野二郎」


枯山水。これは水のない庭というものに終局の目標を置いたということですね。水がないことにこそ、実際に水をつかった庭よりも、さらに広がりをもった水の景色というものを展開できるという積極的な姿勢があるわけです。


 たとえば、庭の中の池というものをとらえた場合、海や川、あるいは流れなんてものをイメージしてるわけでしょ。ところがそういう庭の中でつくる景色というものは、どんなに大きな池をつくり、どんなに大きな流れをつくってみても、自然の海よりも大きな物をつくるわけにはいかないだろうし、利根川よりも大きな流れはつくり得ない。


 つまり、そういうものの考え方で造形を追及していくより、もう1つ別の手法で造形を行うという考え方がでてくる。そういう立場で考え出されたものが枯山水の一つの立場でしょう。



 室町時代に完成された墨画なんていうものは、墨だけで自然の山、自然の花といったものの美しさを表現していこうというものでしょ。


 大体、絵っていうのは色々な絵の具を使って、自然の花の美しさを描いたり、自然の風景の美しさを描いたりするわけでしょ。自然の持っている色合いなんていうのは、無限に近いほどの色合いを持っているわけですよね。


 それを人間がつくった絵の具なんてのは、せいぜい100か200種類の色合いぐらいしかないでしょ。そういうもので自然の色合いを表現するといったって、当然制限があるわけですよね。
また、どれだけデッカイ紙を使ったって、山よりも大きい山を描くわけにはいかない。


 そうすると、それはついにはどうせ絵でしかない。実際の山の大きさ、あるいはその美しさというものを極彩色で表したって表しきれない。とすれば、いっそのこと極限まで色の種類というものを切って捨ててしまって、1色の中に自然の色の無限の変化というものを追及していく方が、あるいはいいかもしれないという考え方。

そういうものと軌を一にする立場。そう枯山水を見ることができると思いますね。

つまり、より多くの色を使って自然の色彩美を表現しよう、より多くの庭園材を使って自然の風景を表現しようという、「足し算の思考」を反転し、いらないものを全部削ぎ落とし、シャープで洗練された、あるいは抽象化された美を求めるという「引き算の思考」だということです。

美術の先生が、果たしてそこまで考えたのかどうかは別にして、竜安寺、というよりも枯山水を考えるとき、なぜかいつもこの出来事が思い浮かびます。

・・・思い浮かぶのはいいんですが、申し訳ない!!

調子よく書き続けていると、文章が増えて書ききれなくなってしまいました。

あまり、好評ではなさそうなので、そこそこにしとかなきゃイカンとは思うのですが。。。。

次回、もう一回だけ続きます。

ホントにこれで最後です。

毒を食らわば皿まで。

出来れば最後まで、お付き合いよろしくお願いします。

竜安寺方丈庭園⑤