前回、あまりにも難しくしちゃいましたね。

庭なんて、本当はそんなに難しいものじゃないんです。

「この緑、優しい」「この石、カッコイイ」「この花、綺麗」

総評して「この庭なんか好き」

これでいいんです。「なんか好き」でいいんです。

今回はわかりやすいですよ。

紹介するのは作庭家ではなく、美術家の森村泰昌氏の言葉です。

「週刊 日本の美をめぐる」から。

「竜安寺、反転の構図 森村泰昌」


 「ただの石と砂じゃないか」。はじめて竜安寺の石庭に接したときの、私の第一印象がこれだった。


 しかし、それを口には出さなかった。なにしろ、石庭である。大人はその素晴らしさを理解しているに違いない。ここで「ただの石と砂」などと発言すれば、自分の未熟さがばれる。


 まだ子供だった私は、庭の縁側にたたずみ、神妙に腕組みなどもして、おとなっぽくふるまうことにした。


 あれから歳月がたち、じゅうぶん大人になった私は、その後に獲得した知恵や知識を活用し、あれは「選ばれた石と砂」だと解釈する道に進んだ。「無」の思想や俗世の夾雑物を取り除いた究極の美といった、おごそかな精神を表現するためのスペシャルな石と砂なのだと。


庭志から庭師へ


 だが、やっぱりどうしても、あれって「ただの石と砂」ではないのかという、あの第一印象の手応えが忘れられなかった。なぜなんだろう。


 私は振り出しに戻り、改めてこう自問してみた。「どうしてただの石と砂ではいかんのか」と。


 俗世では道端の石コロよりもダイヤモンドの方が大事に扱われる。しかし、この世に存在するものの間に価値の差なんてあるのだろうか。子供時代、自分にとっては宝物であったガラスの欠片や安物のおもちゃは、やはり大人が言うように二束三文のガラクタなのか。


 竜安寺の語りかけてくるのは、こうした疑問への明快な解答ではないだろうか。


 世の中のすべての物には等しく価値があるはずだ。言いかえれば、スペシャルであろうが、「ただの石と砂」であろうが、みんな等しく国のお宝なのだ。だとすれば、竜安寺の石庭がスペシャルなのか「ただの石と砂」なのかという問い自体が、意味をなさなくなりはしないか。どっちであっても、価値に変わりはないわけで、だからもちろん「ただの石と砂」でもかまわない勘定になる。


 スペシャルが価値である大人には、この発想のひっくり返しが見えにくい。竜安寺の石庭が投げかける禅問答を見抜いているのは、ほんとうは子供心のほうである。

以上、全編を通して三冊を紹介させていただきました。前の二冊とうってかわって非常にわかり易い内容になってるんじゃないかと思います。

「ただの石と砂ではどうしていかんのか」

この思考の反転はなかなかできないですよね。

「こうあらねばいかん」とか「こうあるべきだ」とか、自分の中で勝手な固定観念をつくってしまい、その自分の中でつくった枠組みの中でしか考えることができなくなってしまいがちです。

有名なマッチ棒のクイズでもありましたよね。

6本のマッチ棒を使って4つの三角形をつくるというもの。

答えはマッチ棒を斜めに起こし、正四面体をつくるんですが、どうしてもすぐに三次元で考えることができませんよね。テーブルの上にマッチ棒を並べてあーでもないこーでもないと動かしてしまう。

平面だと自分で勝手に決め付けてしまうんですね。

次回、最終話。

「まだあんのか」「もええわ」という声が聞こえてきそうですが。。。。

これで最後にします。

竜安寺方丈庭園④